サイド・バイ・サイド、トークイベントでの大林宣彦

 映画作りの撮影現場では、どんな映像が実際に撮られているのかは、誰も知らない。

 なぜなら、撮影されたフィルムが現像されて、翌日以降の映写室でラッシュ上映されるまでは、本当のところは誰もわからないからである。

 ただし、一人を除いて。それが、撮影監督(シネマトグラファー、Director of Photography/DP)。

 撮影監督は、撮影現場で撮られる映像をその場で把握しており、把握できる唯一の存在で、撮影現場において、映画監督よりも君臨しうる存在であった。

 ただし、そんな話はフィルム時代のこと。デジタルでは、撮影現場のモニターで誰でも確認できる。

 これは、キアヌ・リーブス企画製作によるドキュメンタリー、サイド・バイ・サイドのプロローグ。このドキュメンタリーで綴られる多くのエピソード、その一端に過ぎない。

 道具が、フィルムからデジタルに変わることは、いろんな影響をもたらした。映画に関心を寄せたことがある人なら、気になる話が、濃密に、きら星のような映画監督(欧米の)の口から語られる。

 撮影機材のデジタル化は、撮影映像がすぐ観られるという形だけでなく、撮影現場の「民主化」だけでなく、撮影現場の省力化、撮影現場スタッフの少人数化により、映画製作全体の「民主化」につながった。批評の現場である 映画祭 におけるデジタル映画の扱いにも光を当てる。

 映画の鑑賞者にとっても、映画館における上映手段、そして、自宅の居間でも移動中のiPhoneでもNetflix(日本にも進出しているHuluの競合他社)が見られる形で変化が。

 劇中には、撮影カメラの話も出てくる。劇中、ソニー盛田昭夫が、唯一姿の現れる日本人。なお、劇のエンドクレジットには Takuo Miyagishima の思い出に捧ぐという行もある。

 詳しくは、映画を見て下さい。

 サイド・バイ・サイドの配給・宣伝、封切館である渋谷アップリンクは、これを補うべく、封切り当日とその翌日、大林宣彦犬童一心本広克行入江悠トークゲストとする上映回後の公開記念イベントを組織した。私は、大林宣彦の回を観た。(以下は、録音をして書き起こしているもの。)

 大林は、100年有余の映画の歴史の中で、出演しているのがジョージ・ルーカス以降という映画新人類であることを指摘。日本でいえば、マキノ省三小津安二郎黒澤明新藤兼人らを挙げ、彼らなら、フィルムからデジタルへなんて言っただろうか、と思いを馳せる。

 フィルムからデジタルへ、以前に、モノクロからカラーへ、無声映画からトーキーへ、という流れ。

 無声映画は、それ自身、活弁家と共に無声映画としての完成があった*1が、トーキーは、活弁家と声を出すことにおっくうな俳優の失業を招いた。大林は、舞台で、阪東妻三郎の声の物まねをして、場内の笑いを誘った。

 大林は、トーキーへの変遷に、カラーへの変遷に、立ち会っていった監督たちを口にする。

 チャップリンは、パントマイムの無声映画を作り続け、トーキーを作ろうとしなかったが、ちょうど最後の出演映画となった「ニューヨークの王様」で、初めてトーキーを作った。その映画は(満を持してかのような) 言葉の映画だった。

 黒澤明は、モノクロ映画の世界から「天国と地獄」から「どですかでん」へ、カラーへ踏み込んでいった。大林は、このどですかでんの異様な色使いの話から、ピカソ写実主義からキュービズムへの話へ添加させ、ゲルニカ、そして、自身の今年公開作、 この空の花 にまで話がどんどん展開している。≪この話術は、私の筆舌に余る。参ります。≫

 大林は、この映画でルーカスが出演しているのに、スピルバーグが出演していないことを指摘。ルーカスは、映画の中でフィルム映画の破壊者であることを自認していたが、監督は「スターウォーズ」のようにまさに地球から宇宙に行く play な人だった、と。一方で、スピルバーグは「未知との遭遇」のように、地球にいて考える pray な人だからだろう。

 大林は、スターウォーズ(1977年(日本公開は1978年))公開時に、ゲーリー・カーツ(アメリカン・グラフィティスターウォーズのプロデューサー)から、品川プリンスホテルで、スターウォーズのフィルム(フィルム上映でなく、フィルム自身)を見せてもらったという。一コマ一コマを見て、その映像のズレを見て、これはスゴイ、と。≪何のことだか、ちょっと私にはわからない…≫大林は続ける、ルーカースは後にスターウォーズをデジタルでやり直すのだが、そこにはズレがなくなってしまいゲーム映像になってしまった。感心はしても、感動がなくなってしまった。≪いったい何のことだか…≫

 大林によれば、ルーカスは、スターウォーズをもって、映画製作の世界の中で破壊者であったが、映画観客にとっては、映画「バイキング」(1958年)の宇宙版リメークを熱狂的に受け入れたという。

 そして、大林は言う、私自身が、商業映画デビュー作「ハウス」(1977年)で、日本映画の破壊者であった、と。
≪ここ、試験に出ますので覚えておいて下さい。日本映画にとって、とても大事なターニングポイント。詳しくは、ハウス (映画) - Wikipediaを参照、そして実際に本作を観るべし。アメリカでは、2009年から巡回興行の形で公開されており、「アメリカでは、黒沢清に次ぐ日本映画新人類誕生と言われている」(大林)。今も、アメリカでコメントが寄せられている。House (1977) | Cinemassacre Productions

 大林はいう、映画タイトル、サイドバイサイドの意味は、「隣り合って」。共存して、仲良く。アメリカでは、それでもまだ、デジタルだけでなく、フィルムもあるが、日本では、オール オア ナッシングになっている。日本でフィルムで撮っているのは山田洋次だけだ、と。*2

 映画でもあったが、保存が気になる。アメリカはキチンと映画を残してくれているが、日本は小津や黒澤のオリジナルさえ残っていない。これでデジタル化に移行したら、日本の映画はますますどうなってしまうか。笹子トンネルの天井板崩落事故があったが、あれを見て、日本の映画の保存もバタバタと崩れていくことを考えた。映画人は、そういう想像力を持っている。

 フィルムは高価で、映画製作に投入できるフィルム使用量("尺")は、映画上映時間の二倍半程度。NGは、易々と出せるものではなく、同じシーンは2回しか撮れない。役者は間違えてはいけない、と緊張するし、しっかり台詞を覚えてくる。大林は、そこで、小林桂樹山崎努の名前を挙げる。

 デジタル撮影は、色調整のメーターマンは要らない、露出を測る必要もない。デジタルムービーカメラには、三脚を付けても、その三脚ごと、人間一人で取り回せる。フィルムには、カメラ1台にカメラマンだけでなく、バッテリー持ちも必要。加えて、照明(の人)も必要になるが、デジタルなら薄暮でも撮れて、照明さえ要らない。その分、撮影に要する人も減らせる。そのおかげで、飯代、交通手段のバスも小さくできる。

 この空の花は、フィルムなら20億円かかっただろうが、デジタルだから十分の一以下で撮れた。自主製作であればこそ、のことになるが、配給する際にマージンをはねられることもない。

 ここで、聞き手の浅井隆アップリンク)から、質問。もし、20億円用意してくれるプロデューサーがいたら、この空の花をフィルムで撮っていたか?

 大林、少々考えるような間を持ったような気もしたが、答えた。撮っていた。ただし、撮り方は違っていただろう。フィルムなら(対談者用の水の入ったコップに対して、カメラを構えるようなポーズをしながら、右からグルーっと、左からとグルーっと)フィルムとしての撮り方をする、情報記録装置のデジタルならまっすぐ(構えのポーズもまっすぐ)撮っているが。映画の上映時間も、フィルムなら五時間はかかるだろう。この空の花はデジタルだから、二時間四十分で済んだ(場内笑)。

 この空の花は、フィルム、DCP、ブルーレイの三種類のフォーマットで上映されている。フィルムは有楽町スバル座などで、DCPはシネコンで、ブルーレイはアップリンクや、先日もニューヨークMoMAでも。普通に観ている分にはどれでもあまり変わらないように思えるかもしれない。しかし、私にはDCPの方が音がよいように思える。ブルーレイもよい、それをポケットに入れてハワイでも観てもらうこともできた、六百人入る劇場で。

 大林は、次回作のために、この空の花の 撮影 加藤雄大に カメラとレンズをつなぐマウントを作ってもらった。そのレンズで甘い画が撮れる。ただ、そのマウントのおかげで絞りが四段暗くなった。それでもデジタルだから なんとか まかなえる。理想は、マウントの要らないカメラ。

 以上、書き留める内容にまとまりもないが、最後にこのことを記す。

 大林監督、ベテランの少年75歳、は、あと30年映画を撮ると言明。これは、今年5月、百歳で亡くなった新藤兼人を見ての思い。

 今日の対談中、「コマ送りの大林、長回しの高林、きたない映画の(いいむらたかよし(?))」と言及した、高林陽一は今年7月に、去年、ヒューマントラストシネマ有楽町で、大林監督と対談していた石上三登志は、先月、それぞれ亡くなられた。

 大林監督の言葉が、沁みた。

 「この空の花」を、今年の3月に長岡で初めて見たとき、これは監督による自身のための生前葬だと思ったが、その連想は、この空の花公式パンフレットで裏打ちされた。そして次回作は、「野のなななのか」(i.e.四十九日)である。

*1:その場では言及されていないが、映画「アーティスト」を参照。アーティストは、表現手段が無声映画だからこそのクライマックス を現代に出現させたものであり、ものすごく愛おしさを感じさせた映画。確かに、無声映画には、無声映画なりの完成、極み、がある。

*2:映画館における上映環境もしかり。日本の事情については、[http://www.uplink.co.jp/sidebyside/japan.php:title=「日本の現状について(浅井隆アップリンク))」]を参照