課題図書の存立構造(山中恒)

 (初出『教育労働研究2』(73・10社会評論社)、所収『児童読物よ、よみがえれ』(79・10)晶文社

 ここでいう課題図書とは、全国学図書館協議会が1955年から始めた「青少年読書感想文全国コンクールのための課題図書」、すなわち、(絵日記以上にやっかいな)夏休みの宿題である読書感想文に関する課題図書である。

 テレビシリーズ「あばれはっちゃく」、映画「転校生」、同「さびしんぼう」の原作者である山中恒氏は、自らを、児童文学作家ではなく、児童読物作家と称してきたのは知っていた。その理由は、ウェブ上に収録されているこの文章を読むことで初めて知った。

 山中恒の作家活動は、児童読物とは別に少国民シリーズがある*1

 戦中の翼賛団体「日本少国民文化協会」のメンバーは、敗戦翌年、民主的児童文学の想像と普及を旗印に「児童文学者協会」を設立したという(その後58年、日本児童文学者協会と改称)。このことこそ、元”軍国少年山中恒が批判してやまない、大人の節操のなさである。

 課題図書、そのような冠が設けられたことの当初の動機、理念はともかく、課題図書として選定されれば絶対数の多量の売り上げが約束されるという商業的動機付けは、権力化する。すなわち、作家、出版社は、課題図書という「打ち出の小槌」に群がり、また、教師、親をも巻き込んで、本を選び取ることについて思考停止状態を生み出してしまった。

 課題図書から見て取れるような「権力化」は、放送電波を私物化して自社製作映画を宣伝しまくるテレビ局権力にも通じるものがある(昨夏の、フジテレビ系のブレイブストーリー日本テレビ系のゲド戦記を想起すればよい)。課題図書は、活字文化という教育的皮をかぶっている分、巧妙である。

 課題図書に関わる当事者たちの説明ぶりは、課題図書がもたらす商業的影響力について認めざるを得なくなっているが、課題図書の意義を官僚的に役人的な言葉遣いで説明する。その”建前的”なところは、山中恒は大いに憤(いきどお)る。

 しかし、私には仕方がないように思える。課題図書は自ら持つ商業的影響力に立ちすくむガリバーのようで。その影響力を解消するためには「高い身分に伴う義務」(noblesse oblige)程度ではなく、自己解体しかないように思える。

 映画の世界ではいくら巨大テレビ資本が広告を打とうが、大衆に評価された「時をかける少女」(細田監督)が昨夏のアニメ映画で勝利を収めたりするし、民放テレビ局やテレビCMがタイアップで音楽を売り出していても、良心的な作家により作られたNHK「みんなのうた」の曲が世の耳目を集めることがあったりなどは、する。*2

 このように、いいものは結局支持される、という構図が本にもあればよいのだが、実際のところ、最近の出版界は、さてどうだろう。


 山中恒「課題図書の存立構造」は1970年代のものであり、最近の課題図書事情がどうなっているか、私は知らずに上述の論を展開してしまっている。

 なお、課題図書は、現在もあるらしい。

*1:近年は3番目の柱としてガン闘病記もある

*2:おまけに言えば、なんだかんだ言われる「紅白歌合戦」だけれども、昨年末「千の風になって」を取り上げたのはNHKにとって得点になったであろう。