若者殺しの時代 (堀井憲一郎 講談社現代新書)

 今夕の日経新聞のコラムで、中島京子が「『おひとり様用クリスマスケーキ』があると聞いてびっくりした。」と書いている。

 クリスマスに名を借りた消費至上主義、病ここに極まれり、の感。

 資本主義は、共産主義に勝ったと言われるけれども、資本主義の方だって崩壊し始めているのではないか。

 マクロ的に見れば、ここ数年、サブプライムローン信用取引、少なからぬ数の政府の放漫財政のレバレッジ(テコ)が折れてきている。

 また、ミクロ的に見れば、特に若者や子どもを持つ親は、資本主義、あるいは、消費至上主義という麻薬付けで、体よく搾取され続けている。おかげで、GDPは成長を続けてきたが、その麻薬はだんだんと効かなくなり、自壊するようになっているのではないのか。

 戦後、増加する人口は都市に流入し、農業や自営業が減り、勤め人が多くなった。経済成長が続く中、男と女の間での、経済的な自立と依存の関係は、サラリーマンと専業主婦という夫婦という形で、微妙なバランスを保ってきていた。

 そのうち、家族にとっての子どもは、家業を手伝わさせる労働資本だったのが、消費財に変容した。そして、世の中は、子どもに対して大人が余計に金をかけさせるように仕組みが変わってしまった。そのおかげで、経済はますます伸び続けた。

 子どもは、昔は、遊びの天才だったが(自然環境や空き地があれば、「遊び」ができる。)、今は、遊ぶのにお金がかかるように世の中が変わってしまった。携帯ゲーム機や携帯電話を持っていないと、友達づきあいさえできかねない時代になってしまった。

 子どもが大きくなって、若者になっても、若者にはお金がかかる。

 クリスマスは、ここぞとばかりお金をつぎこむべき一大イベントになり果ててしまい、ディズニーランドは、高価なはずの遊び場が魔法のように一般化して、トレンディドラマは、おしゃれに恋する都会生活の空気を振りまいた。

 恋愛は、これらのようにして、消費至上主義による経済的コストと、面倒くさい精神的なコストが、つり上がっていった。

 女性は、恋愛至上主義に食いつく。愛しているならアタシにお金を使って。女性はどこに行ってしまうのだろうか。アタシは自分でも自分にお金を使って自分に磨きをかける。女性は、自分で自分について行けなくなってしまっているのかもしれないが、クリスマスが一人になるなら、「おひとり様用クリスマスケーキ」だって辞さない。

 また一方で、就学期間は長くなった。また、学費は高騰する。お金を稼げるようになる年齢が遠のく。

 あげく、就職は困難に。

 男性と女性の間の、自立と依存のバランスがゆらぐ。

 経済的に自立し、男性に依存しなければならない必要性が薄らぐ女性。その一方で、年中さかりがついていく。そして、男性は辟易してついて行けなくなり、草食化。そんな風になってしまった時代が、若い男性を殺していく。

 そんな実態を、風俗や文献をたぐりながら、自らの実体験も引用しながら告発することを試みた本がある。

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

若者殺しの時代 (講談社現代新書)

 この本の目次を見て、おもわず膝を叩く。

第1章 1989年の一杯のかけそば
第2章 1983年のクリスマス
第3章 1987年のディズニーランド
第4章 1989年のサブカルチャー
第5章 1991年のラブストーリー
第6章 1999年のノストラダムス
終 章 2010年の大いなる黄昏あるいは2015年の倭国の大乱

 男性と世の中は、変化する女性について行けず、変化できないまま。

 今ではそれがグルりと一周して、子ども、女性も息切れし始めているのではないか。

 この本の最終章は、若い男性を殺してしまう時代が最終的には世の中を殺してしまうことを示唆している。