ラジオにもほどがある

ラジオにもほどがある (小学館文庫)

ラジオにもほどがある (小学館文庫)

 こんなにもいい加減な、それでいて真摯な、楽屋裏話。それを文庫書き下ろしで読める幸せ、贅沢。

 この本の舞台は、たまたまラジオであり、語り手、藤井青銅、はフリーの放送作家。そんな彼がバチバチと化学反応を起こした原石たちは、やがて社会的ムーブメントを一緒に巻き起こす伊集院光だったり、あるいは、あれよあれよと一緒にラスベガスに行ってしまうことになるいっこく堂だったり(実際に楽屋裏であんなにまで苦労して、そして舞台で喝采!)、また、フリートークという、一発屋で終わらせない術を授けたオードリー 若林正恭 がいよいよ世に出て行ったり。

 この本を読みながら、途中で、…いったいこの本の著者は、自慢話を鼻にかけるのを隠しながら過去の栄光を語ってる…?とも思えたが、いや、そんな程度のものにこの本は収まってない。

 多少の教養と人脈と、そして、いい加減さと真摯さ。

 これらを兼ね備えていれば、身軽さが信条のラジオは、世の中を、文化祭のような遊び場にしてくれる。

 このことが成立することを、普遍的に証明してくれる。バブルから、今に至るまで、時代を超越する形で。これがこの本のすごいところの所以で。

 伊集院光を、いっこく堂を、目撃してきたラジオ聴取者としては、こんな歴史的証言を文庫で拝読できるだなんて、こりゃ、かたじけない。

 著者が言うには、フリートークという芸は、継続的に、持続的に、一定の質を出せること。まるで、ブログを綴ることのように、難しく、厳しい。

 だからといって、著者は厳格な人間だと言い切れるものでもない。彼が、まだ”開発途上”だった伊集院光について覚えているエピソードは、ある意味、いー加減なもの。けれども、そこで挙げていた、歯医者に行った伊集院がそのことをしゃべってみる、という話。ささいなことの上に立って見いだせる本質、というのは、含蓄がある。

 面白かったのは、藤井氏の行動原理は、時代を超越して普遍性を持っている、ということ。ある時代は、ラジオ発のレコードを出させることであり、今の時代のちょっと手前で Podcast の先導役を務めていたとは。

 そんな著者は、民放ラジオの番組(タダで聞ける)であっても、それをPodcastで無料でネット上に置いて置くことには賛成していないこと。通勤のお供がPodcastな私にとっては違和感を持ったものの、ラジオの中の人の発想として尊重しなければならないのかも、とも感じた。