国が公にする情報は、一般人がパニックになることを恐れた上での、一つの政策なんだ(五木寛之)

 五木寛之の講演を、先日、ナマで聴く機会があった。

 若かりし日の頃、当時の福井市のことを回想して、実はそこにはアルコール中毒患者が多かった、という話があった。

 これは、1945年の福井大空襲、1948年の福井地震の後、多くの人が酒におぼれざるをえなくなってしまったということなのだったという。

 そして、今回の東日本大震災について、人々の心の手当てがこれから重要になる、という指摘が続いた。

 そんな彼の、日経8月3日朝刊の文化面への寄稿から。

 いま私たちに突きつけられているのは、『山河破れて国あり』という現実ではないか。…原発の再開も、復興の予算も今も国が決定する。今も国はあるんです。ただ、今ほど公に対する不信、国を愛するということに対する危惧の念が深まっている時代はない。


原発事故で安全を強調する政府の発表に、不信を強めた人も多い。

「それについては驚かなかった。国が公にする情報は、一般人がパニックになることを恐れた上での、一つの政策なんだ、ということを、私は朝鮮半島からの引き揚げ体験の中で痛感していた。

 敗戦の夏、中学1年生で平壌にいた。当時ラジオは『治安は維持される。市民は軽挙妄動をつつしみ、現地にとどまれ』と繰り返し放送していた。それが唯一の公の情報だった。平壌の駅では、家財道具を積んで38度線へと南下する人であふれていたらしい。ところが国策に沿って生きていた私たち家族は、何の疑いもなく現地にとどまっていた。

 やがてソ連軍が侵攻してくる。自宅は接収される。着のみ着のままで追い出される。敗戦1カ月で母を亡くした。難民倉庫のようなところで、引き揚げを待ったが再開されない。冬は零下20度を下回る寒さで、毎晩襲ってくるソ連軍の暴行と飢餓と不安の中で約2年間なすこともなく、日を過ごした。そのときの教訓が大きな後遺症となって自分の中に残っている」