事実を尋ねることと、意見を尋ねることと。
ひとの意見には、文脈、前提がある。どのような文脈があるのかを抜きにして、ひとの意見を聞くのは危険である。
同様に、調査票と調査方法を抜きにして、世論調査の結果の理解はありえない。
あらたにす 6月24日「たかが世論調査、されど世論調査」(歌田明弘)から。
(前略)
最後に、この週末の世論調査で、同一のことについて尋ねていながら結果が大きく乖離している興味深いふたつの調査結果をあげておこう。
<朝日新聞>「政府は、二酸化炭素などの排出を、2020年までに15%減らす目標を発表しました。経済界はもっと緩い案を、環境大臣はもっと厳しい案を主張していましたが、その間を取りました。政府の目標は、妥当だと思いますか。厳しすぎると思いますか。緩すぎると思いますか」
妥当だ 49%
厳しすぎる 16%
緩すぎる 20%
わからない 25%<共同通信>「麻生首相は地球温暖化対策として、日本の温室効果ガス排出削減の中期目標について、2005年に比べ15%削減する方針を表明しました。政府は、この目標を達成するには1世帯年間7万6000円の負担増になると試算しています。あなたは、この目標についてどう思いますか」
削減幅が大きすぎる 57・6%
妥当な水準だ 26・5%
削減幅が小さすぎる 4・9%
わからない・無回答 11・0%(中略)
○いかに“誘導尋問”排し、結果を得るか
とはいっても、「説明」抜きで、「政府は二酸化炭素などの排出を、2020年までに15%減らす目標を発表しました。政府の目標は、妥当だと思いますか」といきなり訊かれても、どう答えていいかわからない。説明なしでは調査が成り立たないこともある。その場合はいずれにしても、大なり小なり「誘導尋問」になってしまう。
「たかが世論調査」だが、日本社会のなかでの自分の位置を測るまたとない機会という意味では「されど世論調査」である。
このように、質問の仕方によって結果が大きく変わり、それで世論の「動向」とされてしまうという意味では「いやはや何とも世論調査」でもあるのだろう。