東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

 映画に足を運んだのは、樹木希林を観たかったら。目の障害で片方の視力を失って以来、主役級で彼女の長編作品を見ることはできないのではないかと思っていたから。

 (以下、映画の機微に触れる部分あり。)

 映画とは、テレビとは違って、あり得ない魔法を観客に見せることが許される場だと私は思っている。「あり得ない魔法」とは、死んだ人、この世にいない人が、スクリーンに登場させる手法のことであり、私がそのように思うようになった原体験は、大林宣彦監督の一連の映画でよく登場する幽霊である。

 もちろん、そんな魔法は、テレビでも、DVDでも、よく使われる。それでも、明るい居間でそんな魔法のシーンを見せられても、シラけるのがオチであり、あるいは自分だけその世界に没入しても、居間で同じ画面を見ている奴に「ナニ熱くなってるの」と冷やかされるのが、せいぜい。

 「東京タワー...」は、主人公の幼少期から大人になるまでの間の物語であり、主人公も母親(これがオカン)も、年の違う何人かの役者が同じ人物を演じる。大人になった主人公の目の前に、子ども時代の主人公、若き日のオカンが現れ、対峙する、というのがこの映画の魔法。

 「東京タワー...」は、映画公開以前に、フジテレビが、単発ドラマ、連続ドラマで、2回、テレビ化している。映画版が、テレビ版に対して秀でていたと思えるのは、私が映画的手法と思っている魔法が駆使されていたことである。(もっとも、秀でていたところは、ただそれだけ、というように、私には思えて...。)

 ところで、この映画で私の気を最も惹いたのは、そのような幽霊的仕掛けでもなかった。

 若き日のオカンを演じているのは、内田也哉子。内田のことを私はこの映画で初めて見たのであるが、内田は樹木希林の実の娘である。

 映画は、田舎の九州で一緒に過ごした若き日のオカンのシーンから、上京して自堕落な学生時代の主人公しか映らないシーンが続く。そして、大学の4年間が経過した主人公が東京から仕送りをせびる電話を田舎にかけ、その受話器を取るところで、オカン役の樹木希林が引き継ぐのである。その引き継ぎが、自然に、何とも自然に思えたのに、なんだか感じ入ってしまった。こっちの方も、いや、これこそ、ある種の魔法に思えた。キャスティングの妙と、演技の妙が、魔法であった。(ここまで樹木希林に入れ込んでいるのが、自分でも不思議)。