番宣番組だけで、おなか一杯。NHK紅白歌合戦。

 標題は、NHKに対するイヤミではありません。

 番宣番組で見た、制作過程関係者の思い入れや、歌に思いを寄せる人々の方が、素直に面白かった。

 本番は、結局、予定調和(今の言葉でいう「お約束」*1)が目白押しのただの歌合戦だった。

 みのもんた*2節が光ったのは、NHK紅白歌合戦を実況中継するラジオ第一放送ブースに自ら立ち、ラジオを流しながら大晦日の夜を今もお仕事をしている聴取者たちへの思いを込めたメッセージ。

 氣志團 爆笑演出は、出色だった。けれども、奇をてらった演出は、パロディ番組に任せておけばよいものであり、番組の話題にはなっても、華ではない。

 番組終了後の記者会見でのみのもんたには、同情する。

みの不満爆発!「10%の出来」スポニチ

 NHK関係者が周囲にいる中で「民放は視聴率戦争の中で独特のノウハウがあるけれど、NHKは歌を大切にし過ぎるばかりに僕とは相容れないものがあった。曲紹介に時間がとられて、しゃべりができなかった」と説明。

 さらに「受信料を120万人払わない人がいる。国民が支持していないということなのだから、NHKは考えないといけない」と強調した。

みの紅白演出に「大不満」日刊スポーツ

 スタートと同時に早めの進行を指示する“巻き”が入る紅白。アドリブを入れながら相手との真剣勝負を引き出したい、みのの司会哲学とは相反した。「もう少し演出の方法があるね。曲紹介に主眼を置くNHKと自分には相いれないものがあった」。そして「時間がない」と繰り返し「よく最後の『蛍の光』が入ったよね。自分の才能に酔いしれたよ」と大笑いした。また紅白から出演依頼があったらとの質問には「尊敬する宮田輝アナウンサーがやっていた『ふるさとの歌まつり』みたいなのをやりたいね」と話した。

 天才 MC みのもんた や エロかわ幸田来未 といった話題の人物を投入することはよい。日本のテレビ番組で紅白ぐらいでしか、あれだけの素材を並べられないはず。小粒な1+1+1+...ではなく、100+100+100+... をやっているのだ

 しかし、みの が 幸田にどう絡むか が、ないのである。足し算が 100+100=1,000,000 になっていない。それどころか、あまりに凡庸で、100+100=2 だったかもしれない。

 別のたとえをすると、それが寿司1人前と、サーロインステーキ1枚を百貨店の「特別食堂」の同じショーケースに並べるような行為である。

 小料理屋で研究熱心な腕をふるう板前さんだったら、寿司とサーロインを独創的に使ったお皿をべさせてくれるのでは。そんな期待を飛び越えてくれるのでは。え、こんなオイシイ食べ方あったんだ、という驚きを、老若男女に与えてくれるのでは。

 踊る素材を、視聴者に踊り食いさせてよかった*3

 供給者の思い入れより,需要者を夢中にさせること。*4

 そんな 感動、それがない。予定調和であり、かつ、ぐちゃぐちゃ。もったいない。

 残念ながら、伝わるべき情熱は、すれ違いに終わってしまった。


 大晦日夜の番組本番よりも、前夜30日夜の番宣番組「いよいよ明日!ドキュメント 紅白が変わる」

▽番組再生にかけた現場の熱い思いを徹底取材
▽みの起用の裏舞台
倖田來未をどう輝かせるか
▽ラブマシーンへの思い

 番宣番組を見て思ったのは、今回の制作者の意図は、スポーツ新聞のトップをさらいつつ、オバさん心理もくすぐって、世間がお騒がせする、ということをしたかったのだろうということ。

 繰り返すが、そのための素材は、贅沢さを通り過ぎるくらい本当に揃えていた。揃えすぎて、本番では、制作者が事前に作成した大道具、小道具に基づいて、想定したマニュアル通りに演じることしかさせなかった。

 番宣番組で紹介していたエピソードにあったのは、紅白歌合戦草創期の台本はほんの数枚しかなく、出演者を列挙したページに先立つ「まえがき」には「あとは出演者の皆さんでがんばって」みたいなことしか書いていなかったのだという(正確には、ちゃんとしゃれた表現でしたが、思い出せません)。


 前夜番宣番組のゲスト、室井佑月テリー伊藤テリー伊藤の本質を見抜く目には敬服した。

 NHK紅白は、完成度の高い番組。だから録画して後で見ようとなってしまう。何が起こるんだ、と期待して、ナマで見ようとは思わなくなってしまう。

(番組最後の締めくくりにて。室井が、紅白はやっぱりコタツを囲みミカンを食べながら家族で見たい、と《予定調和的に制作者の意図通りの》発言すると、そのセリフを継いでテリーは)

 どうかな。僕は、こう思う。家には部屋ごとにテレビがあるのだから。バラバラでテレビ見ててもいいんでない。でも、紅白が終わった後に、家族がすれ違う時に「紅白、ちょっとよくなくなかった?」と言葉を交わせられたらな。

 家族像は変わってしまったのである。そして、時計の針は、時代の針は、戻せないのである。室井の幻想を越え、現実を押さえた上でのテリーのコメントはさすがである。

 時代が変わったといえば、今の時代、紅白を視聴率で語ることに、どれだけ意味があるの?

 HDDレコーダーがあり、レンタルビデオ/DVDがあり、CS放送/CATVがあり、iPod(videocasting)/gyaoがあり、これだけ娯楽がある時代に、公共放送NHKの存在価値を、大晦日の紅白の視聴率をリトマス試験紙にし続けているという矛盾には、気が付いてもらいたい。

 このことは、中でも、いわゆるコメンテーターと称するテレビ芸者の方々に、想起していただきたい。視聴率至上主義って、世の中でさんざん非難しているでしょ。

 娯楽や価値観の多様化している今、視聴率の呪縛にかかっているNHKの存在は、この意味で不幸である。


 当日の昼以降の放送時間のほとんどを費やした「まもなく紅白! スキウタ・カウントダウンスペシャル」が、面白かった。当日の昼から、公共の電波を使って自社の番宣番組を打つNHKのことをはしたないと思っていた。ところが、実際の番組は、そのような総括で切って捨てるには惜しいものもあった。

 NHKは、「スキウタ」という名前のキャンペーンにより、息の長い運動をしていたらしい(そのことを私はあまり認識する機会がなかったが)。これが、人々の歌に寄せる思い、歌の持つ力を、丁寧に(それなりに丁寧に)掘り起こしていた。

 そして、歌の思い、力が、お互いに断絶された世代を、結びつける架け橋になる可能性がかいま見られた。

 けれども、人の思いというを、国民のめいめいに伝え続けようとすることは、実際のところ、大変難しい。

 それが可能ならば、「成人の日」のNHK青年の主張、は、廃止されることはなかったはず。

*1:予定調和は、現代では 当たり前、又は、シラけ、さらには嘲笑の対象になってしまった。

*2:もともとは東京のラジオ、文化放送のアナウンサー

*3:このようなパターンは、近年の映画に似ている。舞台(CG演出)ばっかり過剰に派手で、プロットや俳優が死んでいる、ってやつ。

*4:これは、大人の思い入れより,子どもを夢中にさせること、と言い換えてもよいかもしれない。ガキのハートを押さえること、ガキの支持を得ること(これもやり方を間違えては台無しだが