ある思考実験
北朝鮮が、仮に、金日成・金正日・金正恩体制を終えたとして、新生北朝鮮は、旧金体制を学校でどう教えるだろう。もし、旧金体制について、学校で教えられることがなくなってしまったら。
もし、新生北朝鮮の教育がそんな風になってしまったら、周辺国はどのように認識するだろうか。黙っているだろうか。そんな新生北朝鮮の教育内容に周辺国が見解を示したら、それは内政干渉だ、と一蹴できるだろうか。
そんな思考実験をした上で、戦前・戦後の日本を振り返ってみよう。
日本の学校。戦前では、天皇は現人神(あらひとがみ)であると教られ、国民はその天皇の赤子であり国体護持のために命を賭した者は軍神として靖国神社に祭られる、としていた。このことは、科目教科を越えて、学校生活、国民の日常生活において徹底されていた。
戦後の教育内容は、天皇は、日本国憲法にあるとおり「象徴」として教えられるようになった。*1。では、靖国はどうだろう。
戦後のことはあいまいで、その前の戦前はどういうものだったのか、という知識が与えられない、という日本の歴史教育。
敗戦時点の子ども達は、少国民教育を受け、軍国少年であった。子ども達は、大人たちの教育に振り回された。
ずるいのは、大人。一億総懺悔という合い言葉よろしく、手のひら返しを決め込み、戦前のことには口をつぐんでしまった。
歴史教育は戦後のずるい大人たちにより、直視することが避けられてしまっている。近現代史は、直視されず、極端な話、学校教育から抜け落ちてしまっている。
日本の歴史教育の使えなさぶりは、悲惨である。近隣諸国から批判を浴びても、反発心的な国粋主義を振りかざすばかりで、話がすれ違う。話がかみ合わないのは、日本人の近現代の認識が空虚だから。アジア近隣諸国との間で、欧米列強に対抗する大東亜共栄圏という当時の日本の理念は、おうおうにして空回りして、理解を得にくいものにしかなっていなかったから。
古代、中世の歴史教育は、戦前の皇国史観から、戦後のものに書き換えを行ったはず。古代、中世を教える教育者ばかりに重きが置かれ、今日を生きる若者たちに近現代史を教えられる教育者はどれだけいるだろうか。国境が低くなり国と国の間の距離が近くなった現代において、歴史を受け伝えるための努力が注がれる対象は、化石のような知識に対して行うべきなのだろうか。
文法偏重主義がひどかった英語教育者たちに対しては、今日、使える英語のためにオーラル実用主義へシフトが求められている。そのような要請に応えられるべく、関係者の間で努力がされていると思う。それを、世論も後押ししていると思う。*2
歴史教育に関わる教育者から、今朝の日経第1面コラム春秋の感想を聞きたい。
「ももいろクローバーZ」、通称ももクロ。…現役高校生を含む彼女らは、先の戦争をどう理解しているか。若手社会学者が試験をした。
戦った相手は「韓国」、終戦の年は1038年と珍回答が相次いだ。しかし試験後の座談会(古市憲寿「誰も戦争を教えてくれなかった」所収)を読むと、学校に問題が多いと分かる。縄文弥生は詳しく、中世から急ぎ始め、現代史はプリントを配り終了。そんな授業を小中高と3回繰り返す。彼女らも古代史には詳しい。
試験前に年号を覚え、終われば忘れる。戦争も条約も、名前に覚えはあっても順番はあいまいになる。「歴史(の授業)で習うと日本のことじゃないような気がして」。正直、なかなか的確な感想だと思う。いま私たちが生きるこの社会と、歴史上の出来事は、どう関係しているのか。先生はきちんと教えているだろうか。
座談会でメンバーの1人が、「子供のころ戦争があった」という祖父の言葉を思い出し、今との距離をつかむ。そうした体験を語る人も、時と共に減る。今の日本の原点となる記憶をどう伝えるか。工夫を怠れば、全く無関心か、アクション映画やゲームを見て勇ましさだけで戦争をとらえるか、そんな向きが増えていく。