リスクと行政の間にある不連続性を埋めるのは、誰か。

 国会同意人事である内閣府食品安全委員会委員に向けて、吉川泰弘東京大学教授は、その候補とされていたが、参議院において民主党の反対があり、この6月不成立となった。このことを巡って、科学と行政、政治の関係について様々な波紋が広がっている

 松永和紀 blogの一連の記述と、そこからのリンクを通読すると、課題の構造が見えてくる。

 以下、そのことを私なりに再構成する。

 民主党水岡俊一は、今年の6月5日参議院議院運営委員会の議事録によれば、米牛輸入にお墨付きを与えたとして、食品安全委員会のことを非難している。(http://kokkai.ndl.go.jp/

 言うまでもなく、食品安全委員会は、規制や指導等のリスク管理を行う関係行政機関から独立して、科学的知見に基づき客観的かつ中立公正にリスク評価を行うべき機関です。しかしながら、政府が二〇〇五年十二月、米国産牛肉輸入再開を決定した際には、食品安全委員会は、科学的評価は困難だとしながらも、輸入再開に事実上お墨付きを与える内容の答申をまとめました。

 今回、食品安全委員会委員の候補者となっている吉川泰弘氏については、当時、食品安全委員会プリオン専門調査会座長として問題の答申をまとめた重大な責任があります。特に、その答申を出したことについて同専門調査会のメンバーの半数に当たる六人が辞任されるに至ったことを考えれば、民主党としては、同氏について同意することはできません。

 今後、食品安全委員会は原点に立ち返り、国民の健康と安全のため自らの職責を果たされるべきことを改めて申し上げ、意見表明とします。

 これに対して、食品安全委員会委員長談話や、そこで引用されている日本学術会議会長談話では、リスク分析(=リスク評価+リスク管理)における委員会の独立性・中立性の尊重を訴えて、行政と立法の間に亀裂が入った。

 ところで、これに先立つ2009/06/02付けの「食品安全委員会委員の同意人事案不同意について(談話)」(民主党『次の内閣』ネクス農林水産大臣 筒井信隆)を見ると、非難の矛先は専門調査会がリスク評価のあるべき姿になっている。

(前略)データが少ないためにリスク推定値が大きくなるのであれば、更にデータを収集し、少しでも確実な結論を得る努力をする必要があったのであり、こうした努力を怠った当該専門調査会には、リスク評価に対する正しい理解が不足していたものとしか到底考えられない(※)。

(中略)

 以上のことから、吉川氏を座長とするプリオン専門調査会は、厳密な科学的観点からのみリスク評価を行ったと主張しながら、結局、リスク評価を放棄したに過ぎず、リスク評価のあるべき姿を理解していなかった点で、吉川氏はプリオン専門調査会の座長として適格性を欠いており、一刻も早く辞任すべきであったと考える。よって、吉川氏については、食品安全委員会委員として選任することについて、不同意とすることとしたところである。

 筒井は、リスク評価のあるべき姿とはデータが少なくても少ないなりにデータを収集することであるという旨を、談話脚注「(※)」として当時のプリオン専門調査会の一委員であった中西準子のを参考文献に掲げながら、主張している。

 談話の全文を読んでも、水岡が参議院運営委員会で発言した食品安全委員会による米牛肉"お墨付き"付与については、筒井はまったく触れていない。

 民主党による国会同意人事に対する反対は、しょせん、与党への対決姿勢を演出するための政局案件だったかもしれない。そのために持ち出される科学的理屈などどうでもいいものとされているようである。

 ところで、話は、さらにこじれる。

 参照された当の中西は、自身のブログ(雑感485-2009.7.21「噂は本当だった−食品安全委員会委員の人事案についての国会不同意−」において、筒井談話の根拠に自分が利用されていることに当惑している。

 データが少ないことに起因してリスク評価の不確実性が増すことをどう扱うべきか。

 筒井は上の談話にて、データをそれでも収集してリスク評価の不確実性を低減してこそ科学である、としている。

 一方、中西は中央公論にて、リスク評価の不確実性を管理してこそ科学である、としている。

何を考慮して不確実性を見積もるかをルールにし、透明性を保ち、修正可能な形にまですることが大事なのであって、これこそが政策決定に関して科学が解決すべき課題ではなかろうか。

(中略)

リスク評価のためのデータが少なければ少ないなりに、その少なさを考慮してリスク評価をする、そして、データが少ないためにリスク推定値が大きくなるのであれば、だから調査が必要とかだから受け入れられないと米国に要求することもできる、これがリスク評価・管理の原則である。

 中央公論の中西は、食品安全委員会日本学術会議に敬意を表しつつも、「リスク分析=リスク評価+リスク管理」の二段階論法は、単純に段階分けできるものではない、として、さらに踏み込んで論を進めている。

科学者は「評価できない」と言ってこの判断から抜けるとしても、誰かがこの重要な意志決定のルールを作らねばならない。このことが重要ならば、科学者がこういう問題に答えるための科学を作るべきではなかろうか。

(中略)

不確実性を科学的に扱い、多くの人が納得できるように扱い、そして一定の結論を出す新しい科学に基づく政策提言だと思う。

 米牛肉リスクの結論は、黒か白かだけでは語れない。言い換えれば、ゼロリスクはありえない。しかし、食品行政に必要な結論は、米牛肉輸入を認めるか認めないか、の二元論しかない。

 リスクの結論と行政の結論は、けっして地続きではなく、不連続である。

 この不連続性を埋め、責任を取る主体は、科学なのか政治なのか。答えは明らかである。

 科学と政治の間での対話は重要である。

 だからこそ、政治の科学に対する態度には、注視が必要である。