雑魚を数えて呑舟の魚を取りのがす

 寺田寅彦の「量的と質的と統計的と*1から。

 私の好きな一節になりました。

これは畢竟(ひっきょう)量を見るに急なために質を見る目がくらむのであり、雑魚(ざこ)を数えて呑舟(どんしゅう)の魚*2を取りのがすのである。

またおもしろいことには、物理学上における画期的の理論でも、ほとんど皆その出発点は質的な「思いつき」である。

近代の相対性理論にしても、量子力学にしても、波動力学にしても基礎に横たわるものはほとんど哲学的、あるいは質的なる物理的考察である。

これなしにはいかなる数学の利器をいかに駆使しても結局何物も得られないことは、むしろ初めからわかったことでなければならない。

実際これらの理論の提出された当初の論文の形はある意味においてはほとんど質的のものである。

それが量的に一部は確定され一部は修正されるのにはやはりかなりに長い月日を要するのである。

 番組の視聴率競争を繰り広げるテレビ局は、数字さえ質はなんでもよいのか。雑魚番組にうつつを抜かして数を持っても、視聴者の心は豊かにならない。呑舟の魚たる心を動かす優良な番組は、数字が取れないからと絶滅危惧種である。(その点、ラジオはまだ、ましである。)

 ちょっとだけ、ご冗談でしょう、寺田さん*3と言いたいのは、「思いつき」でなくて「ひらめき」と推敲していただきたかった。今様に言えば「セレンディピティ」。

*1:インターネットの電子図書館青空文庫から引用

*2:「呑舟の魚は,枝流に游がず。」という言葉もある。

*3:寺田椿ではありません。