文化系へのアクセスは、金以前の問題もあると思う。 Life公開録音 

 文化系トークラジオLifeの公録を観覧。録音内容は、ラジオ放送ではなく、Podcast配信予定。

 同ラジオ局の他番組スタッフがこの番組のリスナーであるということで会場ボランティア役を買って出ていたり、とか、派遣社員らが前日夜遅くまで場内飾りを作っていた、とか、とても手作り感のある感じ。みんな楽しんでいる。

 耳で聞くだけでなく、見ることで、楽しめた部分もあり。髪型とか、穿いてきた勝負パンツとか言われたって、ラジオでどうしろと...。

 「文化と貧乏/文化系とお金」という曰く言い難いテーマに、7名全員登場のパーソナリティー/サブパーソナリティが、めいめいの役回りで議論のキャッチボールを展開。質疑応答の少々ハイブローな質問に対して、その意図をほぐすCharlieの捌き方には軽く舌を巻く。

 公開録音での内容は、そのうち番組PodCastにアップされるだろうけど、こんな趣旨のことが印象に残る。

 テクノロジー(インターネット)により、文化系コンテンツにアクセスするコストは劇的に低減した。名画を見るのに、昔なら、それがかかっている映画館の情報を知った上で、その時間、その場所に足を運ばなければならない。今は、ネットでワンクリックで自分のライブラリーとして所有できる。

 コンテンツへのアクセスコストの条件はフラットになった。だからといって、コンテンツアクセスの結果(個人がそれを血とし肉とすること)をフラットにすることを保証するものではない。

 確かにそうなんだ、そうなんだけれど、コスト低減によって、コンテンツはある意味デフレしちゃったんだよね。コンテンツは多様化したし、異なる系のコンテンツ(その摂取人口)が価値を互いに認め合うということも難しくなった。

 指摘したいのは、コンテンツ・アクセス・コストは低減しても、その前提条件であるコンテンツの存在を知る機会をそもそも持てるかどうか、という問題。

 ”田舎”では、町の書店が、町のCD屋が、町の映画館が、どんどん消えて無くなっているという現状がある。コンテンツの存在を知らなければ、amazonやコンビニで注文することもない。”田舎”にいる才能を芽吹かせることができるのか。その意味で、都市と”田舎”では、機会格差がどんどん開いていると思う。

 話がずれるが、これと並行して思うことは、AMラジオ聴取可能な潜在人口比率が減っているのではないか、ということ。ラジオをセットインユースしている家の割合、電波が入りにくい非木造住宅比率の増大は、AMラジオへのアクセスを危うくしていると思う。