スピンコントロールを伝えない「マスコミは何を伝えないか」

マスコミは何を伝えないか――メディア社会の賢い生き方

マスコミは何を伝えないか――メディア社会の賢い生き方

 本書は、マスコミによる報道被害に関する問題意識を起点として、マスコミ、市民メディア、そして、視聴者の3極から、それぞれの解決策を提案していく。

 商業ジャーナリスト、市民メディア・ジャーナリスト、学校教育におけるそれぞれの現場に携わる人との対話を収録している。修復的報道(restorative journalism *1 )提案には青臭いところはあるものの、その心意気や、よし。また、メディアリテラシーについては、海外先進事例や日本の戦後教育における経緯について触れており、情報源の入り口として有用。

 本書は、報道される対象、特に報道被害に遭った当事者に寄り添って、さらには、何人かの報道被害者に実際に講義・紙面に登場してもらいながら、筆を進めている。イラク人質事件の当事者、世田谷一家惨殺事件の遺族。フラッシュの放列にさらされた側の視点は、興味深かった。

 マスコミ、市民メディア、視聴者、そして、情報源・発信者という各極について、まんべんなく目配りをしているようになっている。

 本書は、過去の連続講義を素材として書籍化しているために、作為的な語りぶりにゴツゴツした違和感を持つところもあるが、その編集上の工夫の巧拙には、目をつぶるとにしよう。

 さて、本書を読んで私の中で感じた、物足りなさを2つ述べる。

 一つは、マスコミの構造に関する分析に、現実味がないこと。

 この本が青臭く思えてしまうのは、報道という経済的活動に、"売れる"ためのインセンティブをどう植え付けるか、という戦略がないこと。マスコミを経済的に成り立たせてくれる商業性は、人の下世話な関心に訴えかける側面は否定できない。修復的報道という正義心だけでは、人を動かせない。答えのない「問い」ではあるが、けれども、その「問い」は提示しておくべきである。

 また、大手マスコミが足並みを揃えた報道をする「雁行のメカニズム」の主因は、記者クラブ制度という名の言論機関による談合活動が存在するからではないか。フリーの商業ジャーナリストさんは、大手出版社編集部における葛藤を語ってくれているが、他にも語るべきものはあっただろうに。

 もう一つの物足りなさのは、情報源・発信者の極が、報道被害者に偏っており、偏った情報、意図的な情報発信(いわゆる、スピンコントロール)を働いている者の存在に触れられていないこと。

 スピンコントロールされている場合の伝え方、伝わり方、受け止め方については、それだけで、別に本を著さなければならないテーマであろう。そのことは察することはできる。それでもしかし、スピンコントロールのことについて、何かしら書き表しておくべきでなかったのか。

 これら物足りなさを思うと、著者である下村健一さんを広報担当としてスタッフ入りをさせた首相官邸の意図のナイーブさに、思いが及ぶ。

*1:修復的司法(restorative justice)という用語に触発された著者による造語。対義語は、応報的報道